創造性問題 その3
2014年12月27日~30日(渡豪11か月目)のやりとり。
田村さん→柴山
柴山さん 田村です
えーと、UPはしますけど、話はこれからが本番になってくるっていうか、こんなのすぐに解決したら誰も苦労しないので、どのへんで切ったらいいかな~って悩みどころです。
これ、みなさんの参考になりますかね?あまりに特殊すぎて、誰も共感できなそうですけど(笑)
や、特殊じゃないと思いますよ。
誰でも結局この問題に行き着くのでしょう。ただ、その行き着くパターンが違うというか、問題になるその問題のなり方が違うだけの話で。
創造性とかオリジナリティとかいうのは、つまりは「自分らしさ」であり、その開発は「自分探し」でもあるわけですよね。
「自分ってなんなの?」であり、「せっかく生まれてきて何したいの?」「人生どうしたいの?」って問にもつながります。
しかし、これって子供の頃から「自分の色を出せ、表現しろ」って言われて育たないと中々難しいと思います。
バンドでも漫画家でも、ある程度の基礎テクニックの履修が終わったら、いよいよオリジナリティになるんだけど、ここで挫折するよね。
何をやってもどっかで見聞きしたものも再現とか真似だったり、
「本当にそれを表現したいのか?」って言われると、「ちょっといいよね」程度の軽いノリだったのが判明したり、
仮に自分らしいなと思うものを作ったとしても、
「ありきたり」「平凡」って言われちゃって、全然オリジナリティが無かったり、、、
もう鬼のように難しいね。
だから、柴ちゃんがここでうんうん唸っていても、それは別にヤバイことでもないし、また、すごく特殊なことを一人で悩んでいるわけでもないですよ。そして万人がブチ当たる問題でもあります。普遍性あるよ。
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ここで一つ助け舟というか、議論の整理とさらなる論議の発展のために、、みたいなことを言えば、、
そもそもなんでこんな話をしているのか、何で問題だったのか?という「問題の所在」です。
それは、通り一遍やったらすぐに「ワーホリやり尽くした感」が出てきたこと、そして「面白くなくなった」ことですね。
症状というか「実害」は、「面白く感じられない」ことです。
で、それが本当に面白く無いんだったらそれはそれでいいんだけど、
その面白くなくなり方が、「いわゆる世間一般でいうパターンを終えたら、それで終わり」という感じなのが問題ではないかと。
「先生、宿題終わりました」みたいな感じでいいのか?と。
そこに自分はあるのか?主体的にやってるのか?
与えられた課題みたいに、そこにワーホリがあるからワーホリやって、そこにウーフがあるからウーフやってみたいな、そんなんでいいの?でしたよね。
そこから自分らしさ、創造性、オリジナリティが乏しいんじゃないかという指摘につながり、
他の人の(中島さんや航平くん)の「彼らなりのオリジナルなワーホリへの対峙の仕方」を聞いたり。
でもって、ここは柴山さんのまさにオリジナルな問題、
昔っから修得するのは早いけどゼロから創造が苦手であるという自画像とリンクしてくるわけですよね?
積年の課題が、やはりここでも~!って感じ。
ということで、これは皆の問題でもあるし、あなた固有の問題でもある。同時にその両方である。
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さて、こっから先の切り口は、ぶわ~っと分岐していくんだけど、いくつか道標を残しておきます。
(1)創造性やオリジナリティというレベルとは微妙に違うけど、「与えられた課題に取り組む自分」という構造が出来てないか?
「人生でやることを既に全部誰かに用意されている」という社会構造そのものの問題
マニュアル社会や、受け身の教育制度とかいろいろあるんだろうけど、
あなた個人の資質はさておき、
まずもってそういう「なんでもある」し、全てが用意されているかのような社会がある。
その社会に適応していくと、別に主体性やオリジナリティなんか必要とされないからどうしても乏しくなる。
そもそも「ワーホリ」だって、”用意された制度”なんだしね、そういうビザが「用意」されてるんだし。
とまあ客観的な枠組みがあり、それはあなた個人の資質の問題を超えているし、レベルの違う問題だという視点。
ただし、柴山くんの場合、その構造に、器用&過剰に適応してしまうって点はあるんじゃないかな?
その課題に取り組むというレベルでは、果敢な行動力もあるし、その限りではアイディアも創造性もあるのかもしれないんだけど、そもそも「なんでそれをやってるの?」という大本の部分では、とても受容的であると。
これは、資質がそうなのか、長年の環境でそうなったのか?あるいはその両方なのか(多分そうだと思うが)。
(2)それら環境を受動的、受容的に取り込むが上手であるという点、
裏返せばそこで上手な分だけ「根本的な懐疑が忘れられるという点」→それがあなたのオリジナリティ(個性)であるという点。
ちなみに、創造性とオリジナリティ(固有性)は微妙に違う概念で、「創造性がないという個性(オリジナリティ)」もあるのだよね。
これは言葉の遊びなんだけど、でも創造性に結びつくオリジナリティもあるはずで、それがはからずも柴山くん自身書いていた「同じことをやっても自ずと個性の差はでる」という部分ですね。
つまりオリジナリティ=個性だと定義づけるならば、それは無限にありますよね。
その中であんまり好ましくないオリジナリティ(妬みっぽいとか、すぐ人を殴るとか(笑))もあれば、好ましいオリジナリティもある。
数ある自分のオリジナリティの中でもさらに細かい鑑識眼で、
自分のどういう特徴がどういう性向をもっていて、どういう使い方が出来るのか。
これはJUNJUNとの対話でも出てきた、「自分トリセツ」につながります。
(3)(前回指摘済)「既知のパターンに固着しがち」という点
それだけに、既知のものを「あれこれ工夫して使いこなす部分は強い」ということでもあります。
これ、日本人的には伝統的な方だし、工学部だったらまさにそれでしょ。
革命的な新発明はなかなか出来ないけど(タイムマシンとか)、地味な改良や改善は上手であるという。
でも「改善」とかいっても、細かな部分は小さな新発明の連続ですしね、改善だからダメってこともないわけで。
柴山くんのともすればパラノイア的な固着癖は、ずっと前の掲示板のアーティクル「シドニーの歩行者用信号のボタンを押したときの快感ベスト3ポイント」なんかにも出ている。
普通そんなの気にしないんだけど、既知のものごとを既知だからといって流すことをせず、あれこれこだわる部分は、もう一歩突っ込んだら、それこそが発明のもとであり且つ創造性にもつながる。
だから、前にも書いたように、プラスでもあるし、マイナスでもある(固着するから外に発想がひろがらない)。
固着→創造性なしとシンプルにつながるのではなく、
真逆に固着→創造性につながる場合もありうる、ということです。
今僕がやってるのは、これまでの議論の前提になる概念をグッチャグッチャにかき回して、ぶっ壊してます。
何を言ってるのかわからないとは思うけど、次に進むためには、一回いままでの構築物を全部叩き壊してしまうってやり方もあるので。
そこでは、
★極小ベクトル=オリジナリティとか「言葉・概念」に異様に偏執的にこだわって原子分解するところまでグリグリやる反面、
★極大ベクトル=「人間と所与の前提(宿命)」=「外界と個性」という巨大な空間にもリンクさせて考える
思考や発想の収縮(内ベクトル)と拡散(外ベクトル)を同時にやってるわけです。
それができるようになるといいよねってのが一つ。
(4)慮外の果実論
これはエッセイでも頻出ですけど、オリジナリティの追求のはずが、いつのまにか人脈作りのコツや技術、さらに広がった人脈で楽しい思いをしているわけで、「問題のすりかえ」って言ってしまえばそれまでだけど、別に楽しかったらそれでもいいわけです。
なぜって、そもそもが楽しくなかったのが問題なんだから、それが楽しくなったら問題解決って言えなくもないので。それが初期のルートを通らなくても、それでも目的地には着いているという。
で、何がいいたいかと、人生そんなもんだろうな~ってことです。
Aを目指してBを得るという。
でもって、数年後にCを目指すときにひょんなことからAを得てしまう。
そういうヘンテコな経過になったりするんだよな~ってのを、この際ちょっと覚えておくのもいいかも、です。
(5)発想
それでも「新規発想が苦手」っていう積年の課題は残ります。ここは横綱級のボスキャラだから、じっくり攻めたらいいです。
行き詰まった時の手の一つとしては、また言葉=定義から攻めるってやり方があります。
「発想とはなにか?」です。
そんなの簡単にわかるわけないけど、あーでもないと考えていると、いろいろヒントが降ってきたりするよ。
そういえば、僕が大学の頃にやってた発想法、思考爆発法みたいなのは、筒井康隆のエッセイからヒントを得たんだけど、「幻想文学を書く」ということでした。普通に文章を書くんだけど、どこをとっても「意味が通ってはいけない」文章を書く。
「今日はミシンがマグロから一直線に山本だ。恋の病も確定申告の通過待ちだが、俺のジブラルタル海峡は、カタツムリの時報の中にビビっている」
みたいに、一箇所でも意味が通ってはイケナイというルールで文章を書く。
すごい頭の訓練になるよ。瞬時に場面をパッパッ切り替えていかないとかけないから。
あるいは、これは収縮訓練だけど、落語の三題噺ね。ランダムに単語を3つ選んで無理矢理につなぎ合わせて、一つの話をでっちあげる。例えば、えーと何にしようかな、「コピー機、振り飛車戦法、ゆで卵」の3つを
つかって小話をつくる。
これエッセイで書いたような気がするな(笑)でも、ある程度は訓練しだいだし、意図的に増強することは可能だと思うよ。
(6)、、もういいか?このように切り口は山ほど出てくるので、あーでもないって考えてみたらいいと思います。
頑張って~ではでは!
PS:さっきの三題噺だけど、えーと、これ難しいな、こんなんどう?
「ゆで卵の皮むきって中々上手くいかないからイライラするよね。じっと同じことをしなきゃいけないので、そういうのが嫌いな人には向いてない。同じことの繰り返しだったら写本じゃなくてコピー機使えばいいじゃんって発想になるんだろうけど。だから振り飛車が好きな人も同じなんじゃないのか。
だって、飛車が同じ場所にじっと居るのがイヤなんだろ?要するにセッカチで、絶えずなんか違うことしてないといやってタイプろ」
とかね。
柴山→田村さん
田村さん こんにちは。柴山です。
実は前回のメール以降しばらく、自我が軽く崩壊していました(笑)
「すでに知っているパターンに固着するから俺はダメなんだ!」と思い始めたあたりから、何をやってもイケナイことをしている気がしていました。
いつもと同じレストランに行っただけで罪悪感に苛まれたり、シャンプーが切れたので Colesへ行き、おなじみのブランドに手を伸ばした瞬間に「また同じシャンプー選んでる!」と自責の念が押し寄せてきたり。
何をしても自己否定につながってしまうので、1日の半分は音楽を聞きながらパズルゲームをして、現実から逃避してました(そのときすら「またジェームス・ブラウン聞いてる!」という自分の声が聞こえてきましたが、なんとか黙殺していました)。残りの半分は、意味もなくシドニーを彷徨っていました。
Milsons Point から Ashfieldまで4時間かけて歩いたときは「絶対に通ったことのある道は通らない」というルールを作って歩いていました。
ノース方面は田村邸以外にほとんど行ったことなかったので、St Leonard から North Sydneyまで散々回り道しながら3時間かけて歩いたり。
ブラブラ歩きながら、ずーっと考えていました。ブラブラ歩くときは簡単に新しい道を見つけられるのに、それ以外だと知ってる道しか通らないのはなぜ…Gumtree 以外にも人脈を増やす方法があるんじゃないか…人脈を増やす以外にもオリジナリティ発見の方法があるんじゃないか…などなど
話はこれからが本番になってくる
まさに同じことを考えていました。
ずっと創造性問題(発想固着問題)を解決しようとして行き詰っていたのですが、「別に今すぐ解決しなくてもいいんじゃない?」「10ヶ月かけてやっとプロローグが終わって、これから本番って思えばよくない?きっと本番はその何倍も時間かかるよ」と思うようにしました。
これまでも創造性は問題になっていたけど、それ以外の問題もたくさんあったから、創造性どころではなかった。でも10ヶ月でそれ以外の敵は大体倒し、やっとラスボスに集中できるようになった。
つまりこれまでは下準備の期間であり、ここからは何年もかけてじっくりやっていこう、と発想を変えてから心の余裕が持てるようになり、気が楽になりました。
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でもって、ここは柴山さんのまさにオリジナルな問題、昔っから修得するのは早いけど、ゼロから創造が苦手であるという自画像とリンクしてくるわけですよね。積年の課題が、やはりここでも~!って感じ。
本っっ当にそうですね!
田村さんに最初にメールを送ったときもこのことを相談してたと思うので、かれこれ2年間も同じこと言い続けてます。
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(1)創造性やオリジナリティというレベルとは微妙に違うけど、「与えられた課題に取り組む自分」という構造が出来てないか?
柴山くんの場合、その構造に、器用&過剰に適応してしまうって点はあるんじゃないかな?
「ワーホリ」とか「ウーフ」は(極論言えば)事務的処理のための言葉なのに、無意識のうちにそういった概念に過剰に意味付けをしてしまう癖はあります。なんとかこの構造を変えたいです。
とはいえ、世の中固定観念だらけですよね。
この前、Facebookで茂木健一郎さんが”生活の党と山本太郎とそのなかまたち”について「自分の政党名に対する固定観念を恥じた」と書いてたんですけど、それに似てると思います。固定観念って挙げたらキリがないです。
でも、一個一個潰していくしか方法はないんですよね。それに、それが結局は一番の近道だと思います。
これは、資質がそうなのか、長年の環境でそうなったのか?あるいはその両方なのか(多分そうだと思うが)。
これは分からないですねー。ただ、小中学生の頃は1つのゲームに固執してずっとやってたのは覚えています。
(2)それら環境を受動的、受容的に取り込むが上手であるという点、裏返せばそこで上手な分だけ、根本的な懐疑という視点が忘れられるという点、それがあなたのオリジナリティであるという点。つまり創造性とオリジナリティ(固有性)は微妙に違う概念で、「創造性がないという個性(オリジナリティ)」もあるのだよね。
これに似たようなことは考えていました。
一昨日将棋の子と会ったとき(というか付き合ってる状態なのでデートなんですけど(^^)v)、今の悩みを話したら「完璧な人間なんていないんだから、自分のそういう所も受け入れればいいんじゃない?」と言われて、目からウロコでした。
そうか、そもそも解決しないという選択肢すらもあるのか、と。
でも諦めるのは良くないので、「創造性がない」という前提で考えていたときに絢也さんの自分トリセツを思い出しました。この飛び道具の使い方をマスターする、という方向性もアリだな、と。(ただ、これを思いついた瞬間も「知ってること組み合わせてるだけじゃん」と自己嫌悪に陥りましたが)
ずっと前の掲示板のアーティクル、シドニーの歩行者用信号のボタンを押したときの快感ベスト3ポイントなんかでも出ている。
ああ、これ覚えてましたか(苦笑)
今考えると恥ずかしいので削除したいくらいなんですけどね。
今僕がやってるのは、オリジナリティとかそういう言葉に異様に偏執的にこだわって原子分解するところまでグリグリやる反面、「人間と所与の前提(宿命)」=「外界と個性」という巨大な空間にもリンクさせているわけで、思考や発想の収縮(内ベクトル)と拡散(外ベクトル)を同時にやってるわけです。それができるようになるといいよねってのが一つ。
うーん。正直、思考の「拡散」っていうのがピンとこないんですよね。もちろん、これを読んだら意味は分かったんですけど…。多分、経験がないのが原因だと思います。
これからは何が思考の収縮で、何が思考の拡散か意識してみます。
(4)慮外の果実論
確かに語学学校時代はあれだけエクスチェンジの貼り紙しても全然見つからず、やっと1人見つかってもアッという間に自然消滅でした。
それなのに、今回はエクスチェンジのパートナーを探していたわけでもないのにひょこっと見つかって、自分でも驚いてます。
Aを目指してBを得るという。でもって、数年後にCを目指すときにひょんなことからAを得てしまう。
最初からゴールを決めすぎず、流れに身を任せるってことですか。なんだかラウンドしてた時に似てますね。
(5)発想
それでも新規発想が苦手っていう積年の課題は残ります。ここは横綱級のボスキャラだから、じっくり攻めたらいいです。
行き詰まった時の手の一つとしては、定義から攻めるってやり方があります。「発想とはなにか?」です。そんなの簡単にわかるわけないけど、あーでもないと考えていると、いろいろヒントが降ってきたりするよ。
はい。やってみます。本質に迫るってことですよね。
そういえば、最初に田村さんに「創造」って言葉を出された時に辞書で引いてみたら、対義語に「模倣」と載ってて、ちょっと心が傷つきました。
そういえば、僕が大学の頃にやってた発想法、思考爆発法みたいなのは、筒井康隆のエッセイからヒントを得たんだけど、「幻想文学を書く」ということでした。(中略)すごい頭の訓練になるよ。瞬時に場面をパッパッ切り替えていかないとかけないから。
これ、こっちにくるずっと前に Aplac のサイトで見つけて挑戦したんですけど、自分の頭の固さに絶望して、三分坊主で終わってしまいました。
あるいは、これは収縮訓練だけど、落語の三題噺ね。ランダムに単語を3つ選んで無理矢理につなぎ合わせて、一つの話をでっちあげる。
これも昔挑戦したんですけど、僕の場合「話を作る」以前に「ランダムに3つ選ぶ」ことが大変でした(笑) どうしても関連のある単語を選んでしまって…。
さっきの三題噺だけど、えーと、これ難しいな、こんなんどう?(略)
あれ?三題噺ってこんな感じでいいんですか?最後はオチがないといけない(語り手が実は女性だった等)って勝手に思い込んでいました。また固定観念が~!
(6)、、もういいか?このように切り口は山ほど出てくるので、あーでもないって考えてみたらいいと思います。
本当に、いくつもあるんですね。自分で他に最低5つは見つけなきゃ嘘ですね。
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全体的に「同じこと考えてました」が多くて申し訳ないのですが、自分でもあれこれ考えすぎて収集がつかなくなり、手からボロボロこぼれ落ちたことを田村さんに拾ってもらったという感じです。
自分で考えていたことがそれほど間違っていた訳ではないと分かったので、少し自信になりました。ありがとうございます。
今年も一年間ありがとうございました。来年も体験記やその他いろいろお世話になると思うので、よろしくお願いします。それでは、よいお年を!柴山武士
田村さん→柴山
柴山さん 田村です
実は前回のメール以降しばらく、自我が軽く崩壊していました(笑)
あらら~(笑)多少はショックかなとか思ったけど、結構キてたのですね。
ブラブラ歩くときは簡単に新しい道を見つけられるのに、それ以外だと知ってる道しか通らないのはなぜ…
こうやって、色々考えているのがいいんですよね。それを辛いと思うか、楽しいなあって思うかです。少なくとも「退屈」はしないと思うのですけど。
田村さんに最初にメールを送ったときもこのことを相談してたと思うので、かれこれ2年間も同じこと言い続けてます。
多分20年後も同じことを言ってるのかもしれませんが、それはそれで別にいいです。
完璧な人間なんていないんだから、自分のそういう所も受け入れればいいんじゃない?」と言われて、目からウロコでした。 そうか、そもそも解決しないという選択肢すらもあるのか、と。
それって、「"受け入れる"という"解決"」なんだけど、まあこれは言葉の問題ですね。それに「受け入れる」っていっても、「何もしない」「諦める」ってことでもないし。
言わんとするのは、現在家が火事につつまれているような、目の前で誰かが腹をおさえて七転八倒しているような、「直ちに解決しないと致命的にヤバイ状況がどんどん悪化している」ってもんじゃないよってことでしょう。
問題の急迫性とか重大性のレベルで、即時解決しなければいけない問題ではないと。
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これは創造性という問題から別の話になりますが、問題とか欠点とかトラブルとかいっても「等級」があるわけで、毒蛇に噛まれて1時間以内に血清を打たないと死ぬという急迫性の高いトラブルもあれば、どうもオッチョコチョイで困るという呑気なトラブルもあるわけですよ。
これって、急迫性でいえば、「なるほどそういう傾向があり、なかなかに難問だな」と理解していればとりあえずは足りるような感じで、大した話じゃないですよ。
また、急迫性以外でも、実害の重大性、あるいは解決の困難性、さらには実害の方向でも経済的被害(お金が稼ぎにくい)、ロマンス的被害(恋愛に支障をきたす)、社会的被害(世間を渡りにくくなる)などあるわけですね。
問題と一口にいっても、切り口によって無限に変わります。
積年の課題であるとか、ラスボスであるとかいうのも、解決困難性を意味するのだけど、解決が困難だからといって被害が重大であると決まったものでもないよね。
解決不可能に近い問題もあるわけだし(生まれつき虚弱体質だとか、僕のように弱視レベルに目が悪いとか、箸の持ち方が変だけど今更矯正できないとか)、だからといって、どれだけ困るかは別問題。
さらに被害があったとしても、被害回復の困難/容易性という、よく失敗するけどフォローはバッチリだから問題無しって場合もあるわけですよね。オッチョコチョイでよく大失敗するんだけど、でもそれが愛嬌になってるとか、天然系の長嶋監督みたいな。
そのへんの視点もすっぽり抜け落ちてるような気もします。
ああ、これ覚えてましたか(苦笑) 今考えると恥ずかしいので削除したいくらいなんですけどね。
もちろん、覚えてます。掲示板の中でもトップスリーに入るくらい創造性の高い(他の誰も思いつきそうもない)アーティクルだし、柴山くんのこれまでのワーホリ生活で一番の「いい仕事」かもしれないってくらい高く評価してますよん、僕は。
あ、ちょっと頭の片隅に入れてもいいかもしれないけど、「創造性が高い」→「誇らしげ」ってなるもんでもなくて、創造性が高ければ高いほど、主観的にも客観的にも「恥ずかしい」ってこともあるのよね。
あれ?三題噺ってこんな感じでいいんですか?最後はオチがないといけない(語り手が実は女性だった等)って勝手に思い込んでいました。また固定観念が?!
ああ、三題噺「みたいな」って書いた方が良かったかな。
3つを繋げる糸が出てきたら、あとはオチをつけるのは簡単でしょ。一定のパターンがあって、例えば、大喜利とかでは、「Aをしながら考えた。”BとかけてCと解く、そのココロは?”」って形に直せばいいわけよね。
「同じものを大量にコピーしながら考えた、”ゆで卵の皮むきが苦手な奴とかけて、居飛車が苦手ですぐに飛車を動かしたがる振り飛車が好きな奴と解く”そのココロは?”同じことをずっとやってるのが嫌い”、それって今コピーしてる俺じゃん!あ、だからこんなこと考えたのか。」
ちょい苦しいけど、別に笑いをとるのが目的ではなく、発想の拡散なんだから、オチなんかどうでもいいです。それはまた別のレベルの頭の使い方だから。そこでオチ形式を探すくらいなら、もっと他のスレッド(糸)を考えた方が鍛えられるぞ。
ゆで卵、振り飛車、コピー機
「キン肉マン」の作者である「ゆでたまご」は実は藤子不二雄のように二人いて、一人は昔はコピー機のセールスマン、もう人は振り飛車を得意とするアマチュア将棋指しだったらしい、とか簡単だよね。
このコツは、「ゆで卵」なら、ゆで卵から連想するものをばーっと思いつく。
「おいしい」「給食に出た」「薄皮がむくのが難しい」「生卵との見分け方」「卵サンドは好き」「英語ではボイルドエッグという」「モーニングによく出てくる」「ゆで卵スタンドなんてあったな」
とか一瞬のうちに10個くらい連想して、あと振り飛車、コピー機で同じことをやり、それぞれ出てきた合計30個ほどの連想概念をバーっと頭のなかに散らばせて、あとはトランプの神経衰弱みたいに組み合わせていくと出来ます。
最初は紙に書いてやるといいかもよ。ここまで言えばわかると思うけど、企業研修でやるブレスト(ブレーンストーミング)みたいなものです。ブレストって直訳すれば「脳内の嵐」なんだから。
落語家なんか頭の瞬発力はバケモンみたいにスゴイから、10秒くらいでやっちゃうよね。見てたら3秒くらいでできちゃう。
ちなみに「3つ選ぶ」なんて簡単じゃん。
目つぶって辞書三回開けばいいわけだし、同じようになんか適当に検索したりニュースサイトで適当に3つサイトを選んで、たまたま表示されたディスプレイの一番右下隅にある単語とか、決めたらいいわけで。
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自分で考えていたことがそれほど間違っていた訳ではないと分かったので、少し自信になりました。
あの~、言葉のハシバシで突っ込むようで悪いんだけど、間違ってるとか正しいとかどうでもいいんじゃない?
てか、「正しい」ってなに?
なんかさ、この世のどこかに「正解」があるように思ってませんか?
将棋の「正着の手」のように。
でも、「ねーよ、そんなもん」ですよ。
それが「正解」「正しい」として認識されるためには、諸条件があるわけでしょ。
とある価値判断に基づく価値序列やら世界観があって、
現在地点からAならAを目指すという目的やらベクトルがあって、
Aへの行き方や考え方が複数あって、
それらのうち本来の価値観にもっとも適合してように現時点では思われるもの
これを「正しい」とか僕らは感じるわけですよね。
「食べ物は美味しい方がいいよね」という価値観があって
パスタを茹でて食べるという行為や目的があって
「美味しく茹でるのはどうしたらいいか」という観点で複数の方法が考えられて
=塩を入れるとか、タイマーをセットしてきっちり測るとか、お湯をたっぷり沸かすとか、さらには「お祈りをする」「パスタにちゃんと茹だるように説教する」「パスタの踊りを踊る」とかいう方法論があって
そのなかで、どれとどれが一番美味しいという価値観に適合するか、もっとも有用そうなものが「正しい」になるわけですね。
つまり「正しい」「間違ってる」という判断をするためには、めっちゃくちゃ大量の前提条件がいるんですわ。
でもって、人によってその前提条件はかなり or 微妙に違ってたりします。
世の中は広いからパスタの踊りこそが正解だと思う人だっているかもしれない。
だもんで、どっかにある客観的に唯一不可侵の正解を、なぜか僕だけが知っていて、それを柴山さんが考えて、答え合わせして結構いい線をいっていた、自信になった、、ってもんでもないと思うのよね。
その人のことである限り、何が正解かを決められるのは、その人だけでしょ。
創造性とやらいうものは、この「正解なんかねーよ」という部分、「正解は、今から俺が作ってやる」て感じでしょう。
発想法でいえば、どことなく文字にして物事考えてないですか?前頭葉の言語野だったかな。
考えてる時って、もっと抽象的にアメーバーみたいなウニャウニャがゆらゆらしてて、形が色々あったり、重なったり、色がついたり、光がさしたり、、、って感じだと思うのですけど。
左脳右脳でいえば、左脳が強すぎるというか。
人間が「正しい」って思うのは、
「理路整然と、正確にたどりついた」ってな感じではなく
「正しいって”感じた”」という感覚的なものだと思います。
ま、これは議論あって、すごーい難しい話なんだけどね。
僕も読んでて挫折した、ドイツ哲学のカントとかの、「先験的理性論、感性論」なんかの話に近いけど。
何にも教えてもらってなくても、人は「いい」とか「正しい」とか感じる事ができる。
なぜそんなことが出来るのか?
それが個性的でありつつも、大まかには誰もが似たような結論になるのは何故だろうか?
若い時に哲学ちょっとでも齧っておくと、そのあたりの頭が鍛えられるかもね。
これは、学生の分際で、、、っていうよりも、学生のときでないとやらないから、ちょっとやってもいいかもね。
ではでは よいお年を~
田村