2018年1月3日

岐阜の読書会に行ってきました

先月の12月16日(土)、ものの本企画が主催する第31回 みとのまち夜明けの読書に参加しました。

友人と好きな本の話をしていたときに「読書会って参加したことある?」と聞かれたのが、2016年の11月。
読書会に興味を持ち、ネットで調べ、初めてこの読書会に参加したのが、同年12月。
今回で、1年ぶり2回目の参加です。


▲柳ケ瀬商店街

会場は岐阜市の柳ケ瀬からほど近い、美殿町の FIELD という店の個室です。本とCDが所狭しと並んだ、素敵なお店です。


▲長良橋通りから2本裏に入った、閑静な通り沿いにFIELDはあります。あまりに店っぽくない佇まいのため、過去には店のすぐ前でグーグルマップで場所を調べていた人がいたそうです(主催者談)

今回の参加者は5人(うち1人は主催者)。課題本は青梅雨(著:永井龍男)です。
19時、夕飯を注文したところから読書会は始まりました。

『青梅雨』は、自殺することを決意した家族の最後の1日を描写した、30ページほどの短い話です。とてもその日に自殺するとは思えないほど静かで穏やかな家族ですが、その1人が最後に泣き声を抑えきれなくなってしまうところで話は終わります。
(この他にも12の短編が入っているのですが、読書会ではほとんどこの表題作についての話に終始しました)。

自分は読書会の1か月ほど前にこの本を購入して2周読んだのですが、正直、2回読んでも全くピンときませんでした。

なんとなくいい話だというのは伝わってきます。しかし、作者が何のためにこの短編を書いたのか、読者はこの作品から何を読み取ればいいのか、そして、この作品が傑作だといわれる所以はなんなのか、全く分からなかったのです。

最初に参加者がそれぞれこの作品に関する感想を話したところ、自分と同じように作者の意図を読み取りたい派(以降「読み取る派」)が3人、逆に素直にいい話だと受け止め、理由は探らない派(以降「読み取らない派」)が2人でした。両者の間には作品に関するとらえ方、小説を読むときの姿勢など、根本に大きな違いがあります。
この違いが大きなテーマとなって、話が進みました。
ある読み取る派の参加者の方は、自らが登場人物の一人になってしまうほど物語の中に入り込み、「なんで自殺なんてするの? 生きてればいいことあるのに!」と問いかけます。しかし、読み取らない派の参加者の方は「それよりもこの作品は、死に至るまでの過程と最後に泣き出してしまう感情の揺れ動きに惹きつけられる」と、あくまで死に対してはクールにとらえています。2人の言うことは全く真逆で相容れないように見えましたが、話をするにつれて、これは単に立ち位置の違いに起因する解釈の違いだということに気づきました。つまり、物語の内側まで入り込むのか、外側から俯瞰するかが異なるだけなのです。
そこから話は、「もし作者(永井龍男)が生きていて目の前にいたら、何と聞く?」という話に発展しました。

最初は絶対に埋まらないかに見えた両者の断絶が、『青梅雨』に関する感想が媒介となって、少しずつ地続きになっていくを感じました。

自分としてはこの作品に対する理解を深めるためにも、「この作品はいい」と感じられる感性の正体について迫りたかったです。
僕は他の参加者の方に「自分もこの『青梅雨』を素直にいいと感じられるようになりたいので、どこがいいと思ったのか教えてくれませんか」と難しい要望を出してしまいました。結果、ひざを打つようなきれいな回答は得られませんでしたが、頭を悩ませてなんとか説明しようとしてくれました。
読書会の前、僕としてはこの作品が評価される要因は、その写実性ではないかと予想していました。つまり、自殺する家族の最後の1日という関わる機会のない状況について、手にとれるような形にまでリアルに淡々と描写した部分が、美しい短歌のような芸術性があるのではないかと思っていました。
その質問をぶつけたところ「多分そういうことではない」という答えでした。この作品は、海の向こうの大陸のように、僕の見えないところにまで広がっているようです。
しかしこれも、「分かろう」としている限り、永遠に分からないのだろうと思います。

20:30終了のはずの読書会も、気づけば21:30をすぎていました。
会計を済ませ、店の人にもお礼を言います。
みなで話をしながら、心なしかゆっくりとした足取りで、駅の方へ向かいます。

忘年会シーズンまっただかなの12月16日。長良橋通りは2次会へ向かう人で、いつもより混んでいました。

みながJRに向かう中、名鉄に乗ったのは自分一人。帰りの電車の中で『青梅雨』を再読しました。やはりまだ「理由を語るまでもなくいい」と言えるほどにはなっていませんでした。

さて読書会の感想は以上になります。

2時間半語り合った中で話はいろんな方向に広がりましたので、僕の解釈をもとに盛り込めなかった話を箇条書きで書き出しておきますと・・・

(以下、作品を読まないと分からないものもありますので、ご了承ください)

・たかだか50万円で死んでしまったのは、時代性(生活保護がない・恥の意識が強い)に関係ない。同じ金額でも人によって重みが違うので、この人たちにとっては自殺という選択をするのに十分な金額だった。今の時代でも「学校でいじめられた」という理由で自殺する子供に対して「それくらいで自殺することないのに」というが、その子にとってはそれくらい大きなことだった。他人が「自殺しなければよかった」「してもしょうがない」ということではない。死というものは、非常に個人的なものである。

・読み流してしまうような1単語・1文についても推敲されているのが分かる。そこから書かれていない部分についての想像の扉を開いてくれるものが選び抜かれている。例えば札というのは、頼りないもんだね。(中略)(つり銭の500円札を)銀貨に換えてもらった。この方が、よっぽどしっかりしているという台詞から、お金の重みを大切にしていることが分かる。そこから連想して、借金を返すために、お金集めに大変苦労した背景までもが想像できる。

・文語で書かれており、普段使わない単語が多く使われているこの作品を、僕が「古さを感じる」と言ったことに対して、「その感想が衝撃だった」との意見があった。もしかしたら、このような洗練された本に触れる機会が少ないことによる、世代の差ではかもしれない。
また、最近の本は文章に美しさがなく、推敲しているとは思えない。あってもなくてもいいような単語や文が多い、という人もいた。
(という意見を聞いて、僕のこんな文章をブログに掲載してしまっていいものかと不安になりました。しかしながら、参加前に「ブログに書いてもいいですか」と了承を取ってしまった手前、やっぱり書かないというのも申し訳ない気分になります。精一杯頑張りましたが、駄文であることを自覚したうえで、公開します)