自分の部屋が汚いことを、それっぽい理由を付けて正当化したいと思います

 先日、二日連続で別の友達に「どうすれば部屋がキレイになる?」って聞かれました。

 なぜか知らないけど、彼らの頭の中では

柴山はしっかりしてる → 部屋も整理整頓してる → コツを知っている

って思考回路らしいのですが、残念ながら僕はしっかり者ではありませんし、部屋も全然きれいではありません。読んだ雑誌は散乱してるし、食器はすぐに洗わないし、机の上は謎の冊子や書類で埋め尽くされています(今整理したら、3年前の住民票が出てきた)。
 お力になれず、申し訳ないです。

 誰も見たくないでしょうけど、証拠写真↓

汚い部屋
(自主規制でモザイクかけてます)

 でも、週に1回くらいは床のものを全部持ち上げて掃除機かけてますよ。そのあと、また元の場所に戻すけど(笑)

 ただ、僕は声を大にして言いたい。
 果たして部屋の整理整頓ってする意味あるのだろうか?ということを!
 「部屋はキレイな方がいい」というのは思い込みで、必ずしもそうしなければいけない理由なんてどこにもないじゃないか!?
 しょっちゅう友達が遊びに来るのならキレイにした方がいいのでしょうけど、そうじゃなかったら別にいいと思います。
 むしろ、キチンと整理整頓しすぎてしまうと、「この引き出しは文房具で、この引き出しは電子機器関係で、、、」とジャンル分けすることになり、どのジャンルにも分類できないものをどこかにしまいたいときに困ります。そういうものに限って重要だったりするから、いざ必要になった場合に「あれ、どの引き出しに入れたっけ?」ってなって結局見つからなかったりするし。

 それよりも大事なことは、どこに何があるかを把握していて、必要なときにすぐに取り出せることだと思います。
 だから僕は、将来これが必要になったときに自分はまずどこを探すだろうかと考え、そこに物をしまうようにしています。
 そうやって置き場所を決めていけば、別に無理して部屋をキレイにする必要ないと思うんですけどね。全部どこに何があるか把握できているわけですから。

結論:
・「整理整頓できているか」よりも「どこに何があるか把握しているか」の方が大事である
・部屋をキレイにするために整理整頓し、結局どこ何を置いたか覚えてないのでは意味がない
・よって、必ずしも部屋はキレイにする必要はない

 って話を例の友達2人にしたら、「思ってた答えと違うなー」みたいな顔をしていました。僕がしっかり者じゃないって分かってくれたみたいでよかったです。

好きこそものの上手なれ

 昨日は我ながらひどい記事を書いてしまったので、一刻も早くオシャレな記事を書いて中和しなければ。

 約1ヶ月前にキーボードを購入しました。

キーボード

 中学生までピアノを習っていたのですが、その時はぜーんぜん楽しくなくて、義務的に教室に行ってる感じでした。
 なんといっても
・家で全く練習をしない
・全然楽しそうにしない
・ほとんど上達しない
というダメっぷりでして、それなのに先生はよく付き合ってくれてたと思います、本当に。なんだかんだいって教室に行くのは楽しかった記憶があるので、それだけ工夫してくれてたのだと思います。
 去年まで個別指導塾の講師のバイトをやってたのですが、こういう 宿題をやらない & 親に言われてるから来てる & 先週教えたことを忘れる ってタイプの生徒は一番腹が立ってましたよ(笑)。だから、塾で自分がそういう生徒を受け持つ立場になった時は、ピアノの先生がやっていたことマネして、自分の授業に取り入れるように工夫していたくらいです。

 話が逸れましたが、「エリーゼのために」が弾けるようになったら満足してしまって、それ以来ピアノを触るのはほとんど初めてです。


 月日は経って、2年くらい前から音楽を聴くのが好きになったのですが、依然ピアノは好きではありませんでした。どちらかと言うとバンド系の曲を聴くのが好きで、ドラムやベースやギターなど、いろいろな音が合わさったときのバンド全体のチーム力みたいなものに惹かれていました。1+1+1 が3以上になる感動、と言うのでしょうか。それに比べてピアノは1つで全部できてしまうのであまり好きではありませんでした。味噌ラーメンと同じで、おいしいに決まってるんだから面白くない、みたいな屁理屈をこねていました。
 それが数か月前、Carole King の「Tapestry」というアルバムを聞いて考えが変わりました。1曲目の2小節を聞いただけで「え!?」と衝撃を受け、アルバム1枚聞き終わった時には「俺はピアノのことを何にもわかっていなかった」と。
 すでに合計何百回も聞きましたが、全く飽きずに聞けるのは名曲の証だと思います。後で知ったのですが、グラミー賞取ってるんですね。

 それからは中2病全開で、すぐに Carole King の楽譜を買いに行って音楽作成ソフトに打ち込み(←それだけのために使い方を勉強した)、とうとう先月にはキーボードを購入した、という経緯です。

Carole King の楽譜

 「好きこそものの上手なれ」という言葉があるように、昔は週1回のピアノ教室以外には絶対にピアノを触らなかった自分が、今は家で自主的に練習しています。昨日なんて「寝る前にちょっとだけ!」と自分に言い聞かせ、30分にするつもりがいつの間にか1時間くらい経ってましたよ。ギターやトランペットと違ってキーボードはイヤホンつければいいので、夜でも練習できるのがいいですね。
 ピアノ教室には真面目に行っていなかったとはいえ、楽譜の読み方は今でもだいたい分かるので、そういう意味ではあのとき習っといてよかったです。
 でも指は全然動かなくて(昔もそんなに動いてなかったけど)、1ヶ月経ってやっと楽譜1ページが弾けるようになったほどですorz

 マルチタスクが苦手な自分には右手と左手を別々に動かすのはいい脳トレになると思いますが、そんな打算的なことはともかく、「楽しいのが一番」のポリシーで自分のペースでぼちぼちやっていこうと思います。

Let it all hang out

 今日は深く考えずに、自分の頭の整理のために書くのでご了承ください。しかも全体的に支離滅裂になると思います。

 最近迷走してます(笑)
 異様なまでの拡散欲求みたいなものに襲われていて、いろんなものにいっちょ噛みしてます。
 例えば新しい皿が欲しくなって、「せっかくだからいいお皿を」と思ってググってみたら、近所に手作りの皿しか売ってない店があったので行ってみたところ、そこの店員さんがお皿の手作りについて30分くらい話をしてくれたのが面白く、しかも「皿を買うタイミングは、夢に出てくるようになるくらい好きになったときだから、今日は買わずにまたおいで」と諭されたので、来月も来ることを約束したり。
 あるいは、とある友達の趣味がラップだと新しく知って、「自分は"いとうせいこう"しか聞いたことがないんだけど、ラップってどういう所がいいの?」などと1時間くらいツッコんで質問しまくったら、彼のプレゼンのうまさにグイグイと引き寄せられて、帰宅後すぐにライムスターをポチッてしまったり。
 あるいは、発作的に「うまい寿司が食いてー」と思ったので、今まで気になっていた近所の寿司屋に入ってみたところ、そこにたまたま来てたおじさんと2時間くらい話をすることができて、僕の考える「親孝行」を一刀両断させられたり。


 でも、こういう行動って全部インプットですよね。そりゃインプットに偏ってたらいつかは壁にぶつかります。アウトプットもするようにしないと。自分って、アウトプット=インプットしたことの中から取り出すこと っていう考えがあるけど、そうじゃないんだってことにも気付きたい。
 でも、そうやって二元論で考えてる時点で頭堅いんだから、第3の選択肢を意識しないことには何にも始まらないよねって考えたり。

 そんなことどーでもいいから、とりあえずピアノ練習しようぜ! とか。

 何か思いつめた時にこうやって迷走する自分って、昔から全然進歩してないと思います。
 しかもそうやって思いつめた時、今までは「いろんな人に相談しまくる」という方法をとっていたのに、なぜか今は「自分で解決したい」というクソプライドを持っているせいで、余計に自分で自分の首を絞めています。俺は何様なんだって。

 ていうか、そんなこと考えてるだけで、客観的に見たら自分何にもしてないじゃん。実際何もしてないし。

 そんな中、この前久しぶりに「グッド・ウィル・ハンティング」を見ました。何回この映画を見ても「人間っていいな」って思います。島本理生さんの小説を読んでも、そう思う。

 頭を整理するために書いていたはずが、余計にこんがらがってきた(笑) しかも、自分で書いた文章を読んでみたら、だいぶ病んでるな~(笑)
 この土日は農業をしに栃木に行ってきます。久しぶりに泥だらけになると思われます。楽しみ~

僕が島本理生さんの小説に惹きつけられるワケ

 栃木県茂木町での農作業レポを書こうかなと思っていたら、島本理生さんの小説を読み終わって感動してしまったので、勢いに任せて書きます。

 島本理生さんの小説を読むと、なんだか百人一首を読んだときに似たような感覚を感じます。
 例えば

秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ

=秋の田の傍にある仮小屋の屋根を葺いた苫の目が粗いので、私の衣の袖は露に濡れてゆくばかりだ。
(現代語訳の出典ここ
という有名な天智天皇の歌があります。しみじみしますねぇ。
 しかし、現代語訳を見ればわかるように、「○○が素晴らしい」というような主観的な表現は一切なく、淡々と客観的事実の描写がしてあるだけです。
 なぜかは分かりませんが、丁寧な描写というのは人に感動を与えるようです。

 一方、島本理生さんの小説が丁寧に描写しているのは、「人の心の動き」です。
 彼女の小説の主人公は、例外なく何らかのコンプレックスを抱えています。というか、コンプレックスを持っていない人なんて一人もいないと思うのですが、主人公はそういった部分と真正面から向き合い、力強く前に進みます。
 カウンセリングの世界では、5・6回目くらいでクライアントは用意してきたことを全て話し終わって、自分でも思ってもみなかったことを話し始める時があり、そこからが本当のカウンセリングのスタートだと言われているようですが(出典ココ、それと同じような心の動きがとても緻密に、かつ的確に描かれています。
 だから、彼女の小説には、ラストでの大どんでん返しもなければ、目を見張るような密室トリックもありません。その代わり、ちょっとした出来事をきっかけに気持ちがかすかに揺れ、何気ないことから自分の中の潜んでいた無意識に気付き、その瞬間に人間関係が進展するという、静かなドラマがあります。そのドラマは、主人公が自分の気持ちに正直になった結果の産物であり、彼らは進むべき方向に進んでいるのです。
 上空から加速して落ちる雨粒が、やがては一定の速さになるように、物語は収まるべきところに収まっていきます。
 登場人物の人間関係の進展だけを取り出して、客観的に見たらバッドエンドのように見えることもありますが、物語全体を通してみれば、流れを堰き止めていたものが外れたときのような清々しさがあります。

 彼女の小説は、ジャンル分けをすると一応「恋愛」になりますが、描かれているのはもっと普遍的なものだと思います。事実、「七月の通り雨」という短編は女性と女性の物語ですが、レズ系の話ではありません。本当は性別は関係ないのだ。お互いに認め合って必要としているなら。そういうこの世でたった一人の相手になれるなら。というセリフが全てを表しているようにも思います。

 また、ストーリーの素晴らしさ以外にも、純粋に文章がとても美しく、読後感が登場人物の気持ちと一致するように計算されて書かれているように思うのですが、これに関しては「とにかく読んでみて!」としか言いようがありません。

 時間をかけてじんわりと体に染み込んでいく感じ。それが島本理生さんの作品の魅力だと僕は思います。

卒業研究に対する幻想の崩壊

 4月から卒業研究を始めて、約3ヶ月が経ちました。ここまでやってきて思ったのですが、研究ってこんなに地味なんですねー(笑)

 やろうと思えば、先輩が使った実験装置をちょこっといじればいいので、実験を3日で終わらせることは出来ます。計算も30分くらいでコンピュータが自動でやってくれますし、その結果をみて分かることは山ほどあるので、時間さえあれば考察なんていくらでも書けます。

 じゃあ普段は何をしているかというと、「この実験条件でいいの?」という検討です。


 ちょっと具体的に書きます。


 僕の班が使う実験装置はこんな感じ。
実験装置
 これに液体を流して写真を撮ると、こうなります。
撮影した写真
 この写真をもとに、コンピューターが「チューブの中の液体はどのように流れているか?」を計算してくれます。その結果から、血管中を血液がどのように流れているかが分かる、という内容です。

 これだけ聞くと、やることは簡単そうなんですけどねぇ。

 では、この写真を”ちゃんと”撮影するためには、何を検討すべきだと思いますか?

 シンキングタイム、スタート!

・・・

 僕たちが実際に検討しているのは、以下の通り(ほんの一部)

1. 壁がどこにあるかという判断
2. 蛍光粒子の数(濃度)
3. 写真の解像度や撮影枚数
4. カメラの露光時間
5. 壁にかかる力(壁せん断応力)の算出方法
6. 蛍光粒子にもいろんな明るさがある→これ以上の明るさは認識する、これ以下の明るさは認識しない、という線引きの判断
7. 管のどこにピントを合わせるか

などなど。

挙げるとキリがないので、1~3だけざっくり説明します。

1. 壁がどこにあるかという判断
写真から壁の位置はだいたい分かりますが、「だいたい」ではダメなのです。この実験は血管の破れやすさと関連があるので、壁の位置が1mm違うだけで結果が全然変わってきてしまうのです。
もっと言えば、この壁は本物の血管に近づけるために、プニプニ動くようになっています。つまり、壁が直線になっているとは限らないので、その位置を特定するのは難しいです。

2. 蛍光粒子の数(濃度)
この実験では写真を連続撮影して蛍光粒子の動きを追うことで、液体の流れを計算しています(PIV解析という)。なので、蛍光粒子が少なすぎると判断材料が減ってしまい、多すぎると写真が真っ白で塗りつぶされてしまいます。「だいたいこれくらいの量がちょうどいい」というのは今までの経験からわかっていますが、もちろんそれは論理的でないので、工学的根拠に基づいて求めないといけません。

3. 写真の解像度や撮影枚数
写真の解像度や撮影枚数は、多ければいいというものではありません。実験用のカメラは値段がメチャクチャ高いからです。
すでに持っているハイスピードカメラを使うに越したことはないので、このカメラで済むように他の実験条件を工夫します。それがダメならもっと性能のいいカメラをレンタルすることになりますが、そのためにはどのくらいの解像度が必要なのかなどを正確に把握している必要があります。


 今は撮影についてだけの検討課題を挙げましたが、それ以外にも、「”血管に見立てて”って言ってるけど、これで本当に見立てられてるの?」とか「流れの解析は何ピクセル単位でするの?」など、山のように調べることがあるわけです。
 そのためにはカメラの仕様を調べたり、文献を読んで「僕たちの実験は科学的に正しい」って証拠を探したり、いろいろやることがあるのです。

 「全部コンピューターに任せればいいじゃん」って思うかもしれませんが、じゃあそのコンピューターはどうやって計算してるかという仕組みについて知らないといけないので、結局は自分で調べないといけないです。

 実験装置だけ見てるとカッコいいんですけど、その裏では地道な積み重ねが必要なんですね。
 「研究ってこんな風に進むんだ」ということが分かり、いい勉強になっています。